世界遺産・日本三景・・・『宮島』

世界遺産・日本三景・・・宮島・・・
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厳島(いつくしま)は瀬戸内海広島湾南西部の島。通称は宮島。広島県廿日市市に属する。2005 年の合併までは、島全体が佐伯郡宮島町と一致していた。日本三景のひとつ、いわゆる「安芸の宮島」であり、大鳥居と海上に浮かぶ社殿で有名な厳島神社は世界遺産にも選ばれた。「厳島」としては、1952年(昭和27年)に国の文化財として特別史跡及び特別名勝に指定された。
歴史
厳島神社は、[推古天皇]の時代の創建と伝えられるが、現在の威容を構築したのは、[平清盛]である。 [戦国時代 (日本)|戦国時代]末期、[毛利元就]が[陶晴賢]を打ち破り、[中国地方]の覇者となる一歩を踏み出した[厳島の戦い]の舞台。元就は、神の島を戦場にしたことを恥じ、その後はこの島の自然の保護者となった。
自然
秋は[カエデ|モミジ]の紅葉が美しい。[索道|ロープウェイ]で紅葉谷を見下ろしながら標高530mの弥山(みせん)の頂上まで上ることもできる。厳島は神の島として木材の伐採が禁じられていたため、ほぼ自然に近い森で覆われている。植生は[アカマツ]が主体である。但し[モミ]のようにこのあたりには通常生育していない木も生えており、この点謎とされている。
島には多くの[シカ]や[ニホンザル|サル]がいる。サルについては[江戸時代]までの記録がない。どうやら近代に入って[小豆島]のニホンザルを人為的に移入したものらしい。これに対し、シカには近代以前からの記録が残っており、厳島神社の[神使]とされている。
干潮の砂浜には多くのヤドカリが見られる。
近年、厳島神社の社殿・大鳥居付近で[海藻]である[アオサ]が繁茂している。景観を損ない、また腐って悪臭を放つので、宮島観光協会と宮島町役場、地元自治会がボランティア活動を主催し、年数回清掃活動を行っている。繁茂の原因は明らかではないが、水質の悪化と水温の上昇にあるのではないかといわれている。
また、シカが大繁殖(適正生息頭数は100頭とされるが、現在島内には600頭が居るものと推測される)し、エサが不足して観光客の[弁当]や[食料品]、挙げ句の果ては観光パンフレットや、(土産物屋などで出す際の)[紙幣]や紙袋など、紙類を狙って食べるなどの被害があり、注意を要する。
観光地として有名だが、島内には民家も存在し、[小学校]と[中学校]もある。また島内には[信号]が1箇所も無い。
毎年8月14日には[宮島水中花火大会]が行われ、県内外から多くの見物客が訪れる。
観る

厳島神社(いつくしまじんじゃ)

推古天皇の御世より海の守り神として信仰を集め、平安時代末期に平清盛が現在のような壮大な社殿を整えた。檜皮葺きの荘厳な屋根、鮮やかな朱で塗られた柱など、平安時代の寝殿造りの様式を今に伝えている。海上にそびえる朱色の大鳥居は、宮島のシンボルである。
宮島桟橋より徒歩10分 拝観料300円

五重塔・千畳閣(せんじょうかく)
五重塔は1407年創建、高さ27.6m。夜間にはライトアップもされる。
千畳閣は、1587年豊臣秀吉が建立したものだが、秀吉の死により未完成に終わっている。幅28.2m、奥行き46.6m、高さ17.4m。内部には絵馬や大杓文字がたくさん掲げられ、中には1646年に書かれたものをはじめ、江戸時代のものも多い。
宮島桟橋より徒歩12分 千畳閣入場100円
紅葉谷公園(もみじだにこうえん)
厳島神社の裏手、弥山登山道への途中にある、宮島の自然を代表する公園。11月の紅葉の時期の景色は、まさに春の奈良県吉野山の桜などと共に、日本を代表する景色といえるだろう。宮島町紅葉谷、宮島桟橋より徒歩20分
弥山(みせん)
標高535mの宮島の最高峰。古代より山岳信仰の聖地となっており、弘法大師空海もここで修行したという。獅子岩などの奇岩や、弥山本堂や霊火堂(れいかどう)などの密教建築が存在する。
宮島桟橋より徒歩30分の宮島ロープウェイ紅葉谷駅より、かや谷駅を経て獅子岩駅下車
ロープウェイ運行時間は9時〜17時
ロープウェイ往復1800円
交通機関
『鉄道』
[広島電鉄宮島線]の終点[広電宮島口駅]かJR[山陽本線]の[宮島口駅]で降り、すぐそばにある宮島口からJR[宮島連絡船|宮島航路]または[宮島松大汽船]の宮島港行きに乗船すると、約10分で島に到着する。
『車』
車の場合、[広島市]街地からは[西広島バイパス]から、[山陽自動車道]からは[廿日市インターチェンジ|廿日市IC]から[国道2号]を走り、宮島口駅周辺の有料駐車場に停車し、宮島連絡船・宮島松大汽船を利用するのが一般的である。
なお、島内に車を乗り入れることは可能であるが、宮島島内の道路は大変狭隘で、観光客や鹿が多く運転には相当なストレスがかかる。また最大の観光地である厳島神社へは港より徒歩圏内であり、更に宿泊客に対しては各宿泊施設が送迎サービスを行っているため、車の必要性が高くない。このため本州から車を乗り入れる観光客はまれである。
また、 [初詣]客の押し寄せる[正月]三が日、[ゴールデンウィーク]、[宮島水中花火大会]の開かれる8月14日、[紅葉]の最盛期(11月中〜下旬)の土日などは、宮島口駅周辺の駐車場の収容力をはるかに上回る観光客が殺到するため、付近の国道2号は動かないほどの大渋滞となる(最もひどい時は西広島バイパスから車の列ができる)。このため、この時期に宮島へ車で行く場合、広島市内や廿日市市内からの[[パークアンドライド]]を行うなど、それなりの対策が必要となる。また、それ以外のシーズンの土日においても、駐車待ちの列に並ぶ覚悟は必要である。
詳しくは、宮島観光協会のホームページへhttp://www.miyajima.or.jp/
【島としての宮島の特性】
宮島は島である。 「島とはへだたりとつながりである」と、瀬戸内海の方言の研究をされた藤原与一広島大学名誉教授が私に語られたことがあるが、これは島の特徴をいい得た名言であると思う。 島の自然とそこに生活する人間、そしてそこに育まれた文化は、 島に対峙する本土とへだたっていて、 しかもつながりがある。
島に対比されるのが大陸である。 宮島の場合、 "大陸"は廿日市と大野にあたる。大陸といっても、 本州もまた島である。面白いことに、 島の面積は連続的に変化しないでギャップがある。世界的に見ると、 オーストラリアとグリーンランドの間に面積の開きがあり、 グリーンランドより小さい陸地を島と呼んでいる。日本では、 四国と佐渡の間にギャップがあり、 佐渡より小さいものを島、 四国より大きいものを本土として扱っている。したがって、 廿日市は宮島に対する本土ということになる。
島の植物の特徴
島の生物には3つの原理が働いている。創始者原理、ビン首効果、ライト効果である。創始者原理とは、最初に島に到達した生物が優勢になることである。大陸から遠い距離にある島に生物が到達するには海流・気流に乗るか、鳥などに食べられたり、羽に付着して運ばれたりする場合である。小笠原諸島には、ドングリの仲間がない。これはドングリが遠距離を運ばれないためである。たとえ遠い島に到達しても、その島の厳しい環境に耐えなければならない。ちょうど細いビンの首をくぐり抜けるように、海岸に芽生えた種子は試練に耐えなければならない。何度かビン首効果を耐え得ても次ぎにライト効果という試練が待ち構えている。島は面積が小さいので、その中で生育できる個体数は限られている。個体数の小さい群で交配が行われると、近親交配を繰り返すことになり、突然変異が次世代に残りやすい。これが、ライト効果である。
これら3つの原理は、海洋島(過去の地質時代に一度も大陸と地続きになったことのない島、 ガラパゴスや小笠原など)で顕著に現れるが、大陸島(過去に大陸と地続きになった島、日本やイギリスなど)ではあまり顕著でない。しかし、宮島のように本土とわずか500メートルしか離れていない島でも、この原理は弱いながら認められる。
創始者原理によって、島には特定の生物群が欠如することがある。前述した小笠原にドングリの仲間がないこともその一例である。宮島にはコナラやアベマキなどの落葉性のドングリがない。コナラやアベマキは伐採など人為的な環境変化によって広がった樹木なので、宮島が島として分離した後に急速に伝播したためであろう。
ある一群の生物が欠如すると、島の生物の社会構造に空白ができる。これを生態的解放という。その空白を埋めるように大陸にはない生物群が侵入して来る。宮島の森林では落葉性のコナラ属がないので、それを埋めるようにクロバイ・ミミズバイ・カンザブロウノキなどハイノキ属の種が多い。
ライト効果によって突然変異が固定されやすいと、島では生物が巨大化したり矮小化したりする。ガラパゴスのゾウガメやセーシェル諸島のオオミヤシ(世界最大の種子)などは巨大化の例である。宮島では矮小化した植物が多いことは、 古くから注目されている。コバノへクソカズラやヤクシマオオバコがその例である。宮島ではシカのよく集まる環境に小形の植物が多い傾向があるので、シカの排泄物の中に矮化物質があるのかも知れない。いずれにしても、島という特別な環境がもたらしたものである。
島の自然は特殊なだけに壊れやすい。実は日本も島であることをわれわれは日頃忘れている。日本の自然を守っていくには、島の自然環境の的確な認識が必要である。「島流し」とか「島国根性」とか、とかく島のイメージは低い場合がある。しかし、同じ面積なら大陸よりも、いくつかに分割された島の方が生物の多様性ははるかに高い。まさに、日本列島がその好例である。
〜名物ガイド 三宅定和さんに聞く〜
●三宅定和さんのプロフィール●

大正8年生まれ。ガイド歴は通算50年といういわば“宮島の生き字引”。
宮島町議会議員を2期務め、宮島歴史民俗資料館建設や港などの観光開発にもたずさわる。宮島の植物にも詳しく、山のガイドとしても有名。
「厳島神社と大鳥居」

■なぜ「宮島」と呼ぶ?■
 まずなぜ「宮島」と言うのかといいますと、宮のある島だから「宮島」と昔から呼んでいたんですね。
しかしこれは“対岸の人たち”からみた言い方なんです。つまり、今と違って昔は対岸の宮島口が丘の拝所だったものですから、そこには鳥居もあって、旅をする人はその鳥居をくぐって栢手を打ち、宮島の神社に向かって拝み、出かけていたんです。そもそも厳島神社に参ろうとするには、昔は船でしか行けなかったのです。陸からは神社の中に入ることができませんでした。対岸から小舟を漕いであの大鳥居をくぐり、本殿正面前に突き出た板張りの「火焼前」(ひたさき)に船を留めて上がっていました。庇も、屋根もない「火焼前」は、桟橋の役目をしていたのです。ですから昔は大半の人が、宮島に渡ることはなかったんです。しかし正式には「宮島」は、「厳島」というのが正しいのです。厳島神社に祭る神様が「市杵島姫命」(いちきしまひめのみこと)をはじめとする宗像三女神ですから、その「いちき」をもじって「いつく=いつくしま=厳島」となったわけです。
  ■厳島神社は、実は武家の豪華な別荘■ 

太政大臣となった平 清盛が京都から宮大工を連れて来て、今のような形式の神社を建てたのが約800年前です。宮島に人が移り住むようになるのもこの頃からなんです。「厳しく祀る」という意味も込めて厳島神社は建てられたのですが、実は“海の神”の名のもとに建てた清盛の別荘でもあったのです。
清盛は日蓮宗です。つまり、“極楽は西方にあり”とする浄土信仰です。そこで清盛は宮島がもつ海の青、山の緑という最高の自然美の中に、「赤い社殿」を配置して“極楽浄土”を造ったというわけです。もっとも「赤い社殿」の“朱”は、昔の建築に使う防腐剤代わりでもあったのですがね・・・。
そしてこのような豪華な別荘に住むにはお金がかかりますから、そこは神を祭り、守るという大義名分がありますので、瀬戸を往来する船から「荷駄銭」という税金をを取り立て、平家一門のご用金としていたんです。のちにこの「荷駄銭」で一番儲けたのが、毛利元就さんというわけです。
   ■大鳥居はクスの木でできた日本一の建造物■ 

神の島である以上、島はご神身体となりますので、陸上には建物が建てられないということで、神社は海の上に建てられたんです。海の上に巨大な木造物を建てるという大胆で奇抜な試みですから、さまざまなところに仕掛けや工夫がほどこされています。そのひとつ、なぜあの大鳥居が動かないのか、浮かないのか、倒れないのか、という疑問があります。実は大鳥居の足は、海底から下に1メートルも入っていなんです。簡単にいえば、自分の重みだけで立っているのです。それなのに大波が来ても、台風が来ても、地震が来てもビクともしない。なぜなんでしょうか。
それは大鳥居の屋根の直下に人間の頭くらいの石ころ約7トンを“重し役”にして入れ、上から押さえているからなんです。足は倒れないように6本足にしており、また柱と屋根の交差する部分には特殊な造りのクサビがほどこされて、柱と屋根の動きやひずみなどを自然に吸収・修正できるように仕掛けが組み込まれていますから、大丈夫というわけです。このようなことを800年も前にやっているのですから、驚いてしまいます。
しかしもっと驚くのは、大鳥居の高さ、大きさ、そしてその重量でしょう。高さは約16メートル、主柱の周囲は約10メートルもあり、しかも1本物のクスの自然木です。クスの木にしたのは、腐りにくいことと虫に強いからです。昭和25年に水に浸かる下の部分だけを新しいクスに継ぎ足しました。このとき、あまりにも木が太いので、載せた貨車がトンネルの入り口で立ち往生して、ギリギリまで削ってなんとか運んできたといいます。どれほど宮島の大鳥居が巨大なものか、皆さんも想像がついたと思います。
  ■このガイドで宮島観光を倍楽しもう!■
 宮島が全国的に有名となり、一般庶民が観光を兼ねて本格的に“宮島参り”をするようになって行くのは江戸時代からです。一時期は歌舞伎も興行され、人気俳優が数多く宮島に来ていましたし、今でいう宝くじの「富くじ」もあり、宮島はかつて清盛が描いた“極楽浄土”のような様相を帯びていきます。このように宮島には、意外な側面も多く、知れば知るほど深いものがあります。これから宮島を観光される場合にも、こうした“予備知識”があるのとないのとでは旅の楽しさ、面白さが倍違ってくるのではないでしょうか。それでは、次回の“宮島物語”をどうぞご期待ください。

「宮島杓子はこうして生まれた」
ご存知のように宮島杓子は、宮島を代表する特産・名物として、全国的に名が知られています。ところがこの名物がどのように発案され、いったい誰が作ったのかは意外に知られておらず、それなりに面白い秘話があるんです。
■宮島杓子は、楽器の琵琶がヒント■
 江戸時代の寛政の頃、宮島にいた誓真 (せいしん)という僧侶が、実は考えたものなんです。
『せっかく宮島に多くの参拝者が訪れても、みやげ物として持ち帰るものが少ない。何か新しい宮島のおみやげ物を作り、しかもそれが島民の生計を助けてゆくものにしてゆけないか。』
そんなことをいつも考えていた誓真はある時、弁財天の夢を見るんですね。弁天さんですから、手には楽器の琵琶を持っているんです。この琵琶の形が、誓真にヒントを与えることになったんです。「そうだ、この琵琶の形を真似てご飯をすくう杓子を作ったらいいのではないか」。そう直感した誓真は、早速作ってみた。すると、思ったとおり実際に便利なものだったんですね。用材は、木の臭いがしないもの、ご飯が付きにくいもの、などからホウの木に絞られ、その後、ヤマザクラ、ヒノキ、ケヤキと、いろいろな用材が使われていくことになります。
■宮島の恩人・誓真■
 こうして宮島杓子は、みやげ物として定着していくんですね。当時、ご飯をすくう杓子としては竹を割って、柄を長くしたり、短くしたりしたものが使用されていましたが、伝統の宮島細工の技法を活かした宮島しゃもじは形、使い勝手の良さなどで圧倒し、しだいに世に広まっていきます。「宮島彫り」というのはもともと「鎌倉彫り」が形を変えて育ったものなのです。一時期には、鎌倉彫りの職人やロクロ師、陶芸家たちが全国から「新天地」を求めて宮島に集まっていましたし、宮島の物産が各地で人気を博し、また宮島の問屋が全国各地のみやげ品を扱っていたこともあるんですよ…。
やがて宮島杓子は、戦時下には「敵をメシとる」、選挙戦やスポーツの試合には「当選、必勝をメシとる」などとひっかけた縁起物に使われ、最近では重油流失事故の救援物資としてなくてはならない重宝な物として使われています。もちろん、私たち広島カープファンにとって、必勝の応援小道具としても欠かせないものでもありますね。
いわゆる誓真は、いまで言う「アイデアマン」であり、「まち興し・まちづくり」の大先輩ということがいえるのではないでしょうか。しかもこの誓真は、地理や土質にも詳しかったらしく、水飢饉に悩む島の人たちをなんとか助けようと、井戸をいくつも掘り当てていくんですね。
その井戸は四つ残っていて、いまもわき水が出て、実際に使われているんです。この井戸を「誓真釣井(せいしんつるい)」と呼び、誓真の碑と合わせて観光ガイドブックにも紹介しています。ですから、この宮島杓子を生み出し、井戸を掘って島の人たちの暮らしを助けた誓真のことを、「宮島の恩人」と私たちは崇めているんです。
■木の杓子は持ち味が違う■
 近年杓子は、一般家庭では安価なプラスチック製に押されていますが、やはりなんといっても私は木の杓子で食べるご飯の方がおいしいと思います。皆さんの中で、プラスチック製の杓子をお使いの方がいらっしゃいましたら、この機会にぜひ木製の宮島杓子を試してみて下さい。持ち味が、まったく違いますから。
「宮島の七不思議」
そもそも「七不思議」という表現自体、世界各国共通になっており、「六不思議、八不思議」というのはひとつもないのが、不思議ですよね。常に奇数の「七」。それはともかく、宮島の七不思議についてひとつづつ、お話していきましょう。
  ■宮島の七不思議その1〜蓬莱(ほうらい)の岩
 宮島港の東に蓬莱岩と呼ばれる岬があります。3、4月頃の波の穏やかな時期になると決まって、この岩向こうに靄が立ち、煌びやかな宮殿楼閣のような物がぼんやりと浮かび、そしてしだいに消滅するという現象が起こっていたんですね。見る人は「これはなんと不思議な光景だ」と思い、このことは古書にも「安芸の国に蜃樓あり」と出ているんです。結局、これは蜃気楼のためであったろうと思います。
  ■宮島の七不思議その2〜神馬(しんめ)
 宮島は「神の島」ですから、宮島の馬は当初は「白馬」だったんですが、時が経つにつれて茶色い普通の馬が入ってくるようになります。ところが何頭かが自然に色が変わって「白馬」になってゆくものですから、島民の間で「これは神馬だ」と、不思議のひとつとして語り継がれています。これは、一日中日陰の馬屋に繋がれていたという環境や、突然変異の類のものなどによるのではないでしょうか。今年、付近で獲れるボラに白い色が多いのと、似ていますね。
  ■宮島の七不思議その3〜天狗のあしあと
 これは、神殿の左側屋根に雪が降ると、決まって大きなあしあとが付くことから「天狗のあしあと」(または「雪の日のあしあと」)だという伝説です。これも自然現象のいたずらで、積もった雪の上をカラスかサギが歩いて跡を付け、時間が経つに連れてあしあとの回りが溶けてきて大きくなり、「天狗のあしあと」に発展したのではないでしょうか。ヒマラヤの雪男の話しも、恐らくこのようなものと同じではないでしょうかね。
  ■宮島の七不思議その4〜神烏(おがらす)
 宮島では毎年5月15日、島の浦々におまつりしてある厳島神社の末社を船に乗って巡拝する「お島廻り」というのがあります。その中の養父崎(やぶざき)神社でのお参りは「お烏喰式」(おとぐいしき)といわれ、神社沖合いに板を浮かべ、その上にカラスに食べさせるお供えの団子を置き、船の中で楽を奏でると山からニ羽のカラスが飛んできてその団子を取ってゆく、という不思議な儀式なんです。カラスが団子を取ってゆかないと、お宮参りは許されないんです。カラスも宮島では神の使いという言い伝えがあり、最初にカラスに団子を食べさすことを教えたんです。そうしないとこの儀式は成り立たない。この儀式はもう何百年続き、版画にもなっており、今も毎年行われていますから、まさに不思議ですよね。
  ■宮島の七不思議その5〜みさけ(あやかし)
 これは、日が暮れて山に入ると神かくしに遭い、金縛りになるというどこにでもある伝説です。もともと宮島では日が暮れて山に入ってはいけないというしきたりがあります。とくに厳島合戦で多くの血が流れた場所ですね。私も一度子どもの頃、父に連れられてそこを通った時、体験しました。父の髪の毛が逆さに立ち、動けない。そこで父は山の頂上に向かって「これをほどいて下さい」とご証文を読んだんです。すると髪の毛が寝て、歩けるようになった。しかししばらくすると2度、3度とまた金縛りになり、峠まで来るともう来なくなりました。土地の人はこれを「あやかし」といっていますが、近年、これに出遭ったという話しは聞きません。しかし、私は今でもそこを通る時は「お許しを願います」と言ってますがね。
  ■宮島の七不思議その6〜天狗の松明
 年の暮れになると、決まって弥山の頂上を中心にして灯かりが灯り、しかも拍子木のようなものでカチカチと叩く音も聞こえることから、土地の人はこれを「天狗の松明」と言い伝えています。これは、伐採を禁じていた銘木を、役所が休みに入った年の瀬を狙って切りに入った人たちの松明の灯かりとマサカリの音ではないかといわれています。
  ■宮島の七不思議その7〜龍燈の杉
 弥山の頂上から少し東に下ると、龍燈の杉というのがあります。毎年正月6日の夜になるとここから広島方面の海上に怪しい光りが闇夜に浮かぶんですね。これは漁り火か不知火のようなものを、当時の人は「龍燈」と思ったのでしょう。今は広島の夜景が明るく過ぎてこのような光景を目にすることはできません。
以上が宮島の七不思議といわれるものです。その原因と思われるものは、気象・自然現象や宮島独特の生活、文化、歴史がもたらすものといえます。その意味で、宮島は小さな島だけども、多彩で豊富な内容を持つ島といえるのではないでしょうか。
「最終回」
このつたない宮島物語も、とうとう最終回を迎えます。その締めくくりとして宮島の良さ、素晴らしさの総まとめをさせていただきます。
  ■平清盛は大の「庭師」
 私は昭和25年頃から宮島観光ガイドをずっと続けていますが、なんといっても宮島の一番の魅力は島全体の美しさ、おおらかさです-とお話してきました。島はちょうど仏様が寝た格好をしていて、なごやかで程よい形の印象を受け、島内は豊富な植物に囲まれ、サルやシカなどの野生動物も目のあたりにできます。そして瀬戸の穏やかな海と壮麗、荘厳な厳島神社・大鳥居…。私はこの光景を毎日目にしているのですが、何度見ても飽きることがありません。
私はつくづく思うのですが、宮島を敢えて選び、そこに厳島神社を建てた平清盛は相当センスのある「庭師」であったのではないかと考えています。実際、厳島神社は“海の神”の名のもとに建てた清盛の別荘でもあったわけで、その辺は第1回でお話したとおりです。
  ■「たのもさん」にみる宮島の人々の“感謝の念”
 宮島の美しさ、おおらかさはまた、宮島の住民の心にも共通しています。人口3000人足らずの小さな町ですから、みんな親戚付き合いのようなところがありますが、人情に厚い、感謝の気持ちが強いといえます。たとえばそれを、宮島の行事「たのもさん」にみることができます。
「たのもさん」とは、田の実りに感謝し、その五穀豊穣を対岸からいただいていることに対するお礼の意味なんです。「たのもさん」が近付くと、それぞれの家庭が手作りで舟を作り、団子で家族全員の姿と犬一匹を形にし、供え物を入れ、雪洞を付ける、ロウソクを灯す、家紋を付けた帆も付けて、みんなが一斉に対岸に届くことを願って流すんです。この「たのもさん」はいまも毎年行われています。
  ■船旅には情緒がある
 次に宮島の魅力を引き立てている要素として大事なのが、“船を使う”ということです。宮島は対岸とわずか1800メートルしか離れていない非常に本土と近い島で、泳いでも2時間の距離です。しかしわずか10分の短時間の船旅とはいえ、船に乗って海を渡るのは情緒がありますよね。宮島にとって“船を使う”ということの良さは、これだけではありません。もし宮島に橋が架かっていたら、宮島の人々はたいへん便利ですけど、宮島の貴重な文化財の多くは「環境破壊」を免れなかったのではないでしょうか。橋ができると車が増え、道路は拡張、新設されて、施設もそれに伴い増えていきますから、町民は不便だが、敢えて橋のない生活を選択しているのです。
 こうした宮島の良さ、素晴らしさを、私は手を変え、品を変え、面白く、分かりやすく、1回の観光コース2時間の中で毎日、毎日ガイドをしてきました。この声が続く限り、大好きな宮島のガイドを務めていきたいと思っています。それではいつか皆さんにこの宮島でガイドができる日を楽しみにしています。
〜住職 吉田正裕さんに聞く〜
「大本山-大聖院」
 宮島にある寺院の中で最も歴史が古いのが、真言宗御室派の大本山・仁和寺の末寺、大聖院です。空海が宮島に渡り、弥山の上に修行をして開祖したのが806年といいますから、歴史の重みを感じない訳にはいきません。皇室との関係も深く、古くは鳥羽天皇勅命の祈願道場として、近くは明治天皇行幸の際の宿泊先になるなど、格式の高いお寺といえます。
■見ごたえのある大聖院
 その大聖院は宮島桟橋から歩いて20分、対岸の町並みが望める場所にあり、大聖院住職の吉田正裕さんによれば、「秀吉も当院の庭園で何度か歌会を開いているように、ここの閑静な環境と眺めの良さも特徴のひとつ」といいます。大聖院に祭られている仏様は、十一面菩薩をはじめとする数々の観音菩薩像、不動明王、家内安全と商売繁盛祈願の三鬼大権現、遍照窟、七福神、一願大師などなど、すべてをお参りしてゆくとけっこう時間がかかり、見ごたえがあります。
境内に時折響く鐘の音、たなびく香の煙と匂い、そして至る所で眼に入るイロハモミジの鮮やかな色とが、いっそう訪れる者の心を洗い、静寂さと長閑さを引き立ててくれます。
  ■宮島の真価は弥山の頂上からの眺めにあり
 吉田住職さんはいいます。
「当院の仏様はみなそれぞれが得意のものを持っていますから、お参りされる方々の目的に応じた仏様だけを参拝されてもいいですし、全部をお参りされてもかまいません。当院には年間を通じて推定約50万人の参拝者があり、そのうち最も多いのが家内安全と商売繁盛祈願の三鬼大権現への参拝者の方になります。時期としてはやはり正月の初詣でしょうね。もちろん観光客の方も足をのばされて参拝にこられますが、大半の観光客の方は厳島の鳥居、神社の回廊をみて満足して帰られます。大聖院には厳島神社とはまた違った魅力や宮島の再発見もあろうかと思いますので、ぜひ足をのばして来てみて下さい。しかし本当の宮島の良さというのは、弥山の頂上からの眺めだと私は思っています。実は伊藤博文も「宮島の真価は弥山の頂上からの眺めにあり」といい、それで現在の登山本道ができたのです。つまり瀬戸内海とそこに浮かぶ島々の景観。宮島が日本三景のひとつに入っている理由は、この「眺め」でもある訳ですね。」
  ■きえずの火は一見の価値
 その弥山頂上に置かれている大聖院の本家である弥山本堂へは、ロープウェーか登山道なら大聖院コースの「弥山登山道」を歩いていきます。弥山本堂にも、弥山の守護神である三鬼大権現をまつる「三鬼堂」、不動明王をまつる不滅の「霊火堂」など見ごたえあるものが建ち並んでいます。中でも霊火堂にある「きえずの火」は、806年に弘法大師がここで100日間の求聞持の修行を行なって以来、1180余年も消えることなく燃え続けており、広島平和祈念公園の「ともしびの火」のもと火にもなっている貴重なもの。その火で焚かれている大茶釜の霊水を飲むと、万病に効くといわれ、そのご利益を求めて弥山に登って来る人も多く、一見の価値があります。
〜権宮司 野坂元臣さんに聞く〜
「厳島神社」
1400年もの歴史と全国有数の文化財をもち、「世界遺産」にも登録された厳島神社。今回は、この厳島神社の代々の神主家である38代目宮司の弟に当たる権宮司・野坂元臣さんに、厳島神社の“舞台裏”をガイドしていただきます。
■社頭収入を主な収入源とし、職員65人で運営
 まず私の肩書、仕事についてご説明いたします。「権宮司」の「権」とは「次」という意味で、会社でいえばナンバー2、副社長にあたります。従って兄の宮司である社長を補佐し、ふつうの神社の神主が行うことはすべてやります。
厳島神社は正式には「宗教法人厳島神社」で、社頭収入を主な収入源として、現在、職員65人(給与支払い対象)で運営にあたっています。といってもこの規模がどの程度かはわかりにくいと思います。例えば、神社は全国に約8万社ありますが、その中で一番大きい神社でも職員は100人いるかいないかで、しかもこのクラスの神社でも全国で10社に満たないわけですから、厳島神社はかなり大きな神社といえるのです。中四国ではもちろん有数の規模です。
それから他の神社と大きく違う点は、舞楽、雅楽を伴い、かつ膨大な文化財をもっているということです。こうした古来の伝統行事・まつりごとと貴重な文化財の維持保存も、大切なわれわれの仕事となっていますので、そういう点では、全国でもめずらしい神社といえるでしょう。
  ■"清潔" が絶対条件
 神社への出勤は午前8時から午後4時までですが、昼休みの休憩時間は神社にはありません。日曜、祭日も交代で出勤し、いわば「年中無休」のサービス業と同じですね。
これは一般にはあまり知られていませんが、神主と巫女だけは出勤前には必ず潔斎をして身体を清めてから仕事に就かなければならないのです。神社の社務所に男女別々に潔斎場があり私たち神主は、毎朝出勤前に入っているわけです。ふつうの会社なら考えられないきまりごとですが、神社という性格上、「清潔」が絶対条件であり、まずあいさつは上司より神様が先だという考え方なんですね。
 それから私が着ている、いわゆる神社の制服「白衣・袴」は、朝家を出るときから着用して出勤します。この白衣・袴を洗濯するのにも、他のものと一緒に洗うことは禁じています。そして洗った白衣・袴を干すときも、物干し竿はそれ専用のものでないといけないのです。それほど神社というものは、「清潔」にもっとも気をつかっているわけです。
また皆様がびっくりするような厳しい規則があります。神主で子供が産まれた場合、産穢といって3日間神社に出社できませんし、巫女も生理中出社できません。
 厳島神社の“舞台裏”の一面は、こんな状態で運営されています。このほか、火災になれば大変なことになりますから、火災保険の掛金も莫大なものになりますし、海面の水位が今より50センチ上がると、神社は維持してゆけなくなるとか、とにかくなにかにつけてもスケールが大きい半面、深淵で繊細−というのが、厳島神社の魅力ではないでしょうか。この厳島神社が、わずか大人300円、高校生200円、小中学生100円で参拝・拝観できるというのも、芳名な神社としては全国でも希なケースといえます。
〜住職 平山真明さんに聞く〜
「大願寺」
明治まで厳島神社の普請奉行として寺院の修理・造営を一手に担い、千畳閣、五重塔、多宝塔などから形成される“厳島伽藍”の中心をなしていたという大願寺。今回は、この大願寺の第40世住職の平山真明さんに、大願寺の特徴、みどころをガイドしていただきます。
■「厳島の明神をまつるお寺」
 真言宗高野派・大願寺は、記録が残っているものから数えると鎌倉時代の建仁年間(1201〜5)に僧了海によって再興されといいます。明治の神仏分離令の後、大願寺は山門と本堂ひとつに縮小されはしましたが、厳島の大明神「弁財天」がまつられています。「弁財天」とはつまり厳島の明神であり、江の島、竹生島と並んで日本三大弁財天のひとつに数えられるほどの有名な神仏です。この「弁財天」をお迎えしている点が、大願寺の大きな特徴なのです。
■「弁財天のご利益とは」
 弁財天は、自分の願いを込めて祈る念持仏としての働きが強く、信者さんは“現世利益”を求めるためにお参りをされます。ですから信者さんは、北は北海道から南は奄美大島まで全国各地からお参りに来られます。信者さんの願い、悩みは実に多種多様で、単に祈願させていただいて終わりというわけにはいかないケースもあり、ご希望があればできるだけ時間を割いてお話を聞く、ご相談に応じるということに努めています。これは私の考えで行なっているのですが、個と個の対話を基礎とした祈願という点も、大願寺のユニークさともいえるのではないかと思います。
■「弁財天は私のすべて」
 といいますのは、私はこの仕事に就いて通算20年、先代の後を継いで住職として13年になりますが、弁財天は私のすべてであり、弁財天の教え、考え方と共に私はあると思っているからです。それは言葉を換えて言えば、「神仏を通して心にうるおいとゆとりを得ること」を弁財天から学んだからです。つまり私の仕事はその事をご縁のある方々に伝えていく事だと。ですから私はもう一度生まれ変わっても、この仕事に就きたいと考えています。
■「維新の重要人物も訪れる」
 歴史上の人物でかかわりあいのある点でいえば、明治以前の本堂は厳島伽藍の僧坊で、社務所でもありましたから、本堂の書院には勝海舟と長州の使者が会談していますし、西郷隆盛も泊まっています。また境内には伊藤博文が植えたとされるめずらしい「九本松」を見ることができます。この他に本堂には、大願寺の本尊である木造薬師如来座像をはじめとする重要文化財が5体ご覧になれますので、宮島に来られたときには、弁財天とあわせて、ご参拝いただきたいと思います。
〜宮島歴史民俗資料館 高橋修三さんに聞く〜
「豊国神社本殿」
(千畳閣、国指定重要文化財)
庶民の生活に根ざした宮島の歴史と民俗について、収集された約3000点の資料を展示公開している「宮島歴史民俗資料館」。そこで22年間学芸員を勤めている高橋修三さんに、宮島の市街地を東西に二分する塔岡に立つ、素木のひときわ大きな捷物「千畳閣」を語っていただきます。
■ 未完成の千畳閣
 豊国神社本殿は、安土桃山時代の天正15年(1587年)に豊臣秀吉により経堂として鐘立が発起され、明治の神仏分離までは大経堂、千畳敷(全部畳を敷けば857畳)と呼び慣わされてきました。明治5年4月から大経堂を千畳閣と改称し、仏像を大願寺に移し、豊国神社としました。 建物は、天井が張ってなかったり、小屋組みが見えたりと未完成のまま終わっています。鬼瓦には天正17年(1589年)の刻銘があるので屋根は命令が出てから3年目に初めて葺かれたと見られます。工事は慶長に入っても続行していた言う人もありますがいつまで続いたか定かではありません。
■ 時代を象徴する千畳閣の利用法
 薙物は経堂として建てられたけれども、それとしては使われていませんでした。経堂を用いての法要の記録は見つかっていません。元禄期の『厳島道芝期』の記事をみてもすでに「諸人の納涼の場」として親しまれていたようです。また、天保期の『芸州厳島鳥図』の「大経堂より眺望の図」をみると、柱にはいくつもの墨書があり、いろ楊枝などの土産物を売る人、旅人風の男女、子供を背負った娘や子供、上がり込んだ二匹の猿など親しみ深い建物の様子が描かれています。このように明治時代中頃までは、千畳閣は町内にある唯一最大の屋根のある嬢物であるため、多くの人が集まる催しや会合の場として、また軍隊や学校生活の休息や病院施設の役割まで果たしていました。明治32年(1899年)に要塞地帯法が制定されて以来、写真撮影が制限されました。こうした利用のあり方には当時の時代的背景が如実に現れていることがわかります。
■引越ししてきた絵馬、扁額
 現在、ここには沢山の扁額が掲げられています。これは、有名な画家や書家が描いた絵馬を、江戸時代を通して本社拝殿や回廊に掲げられていたものですが、暴風雨や高潮で流失することが生じたために、明治の中期にここに移されたものです。
■適を召し捕る杓子
 千畳閣の名物、杓子のことについて少し申し上げます。戦後すぐまで千畳閣の柱にはびっしりと杓子がしばりつけられていました。このように杓子を奉納するようになったのは何年ころからかと言いますと、明治27、8年の日清戦争が起こりといわれます。当時、大本営が広島に置かれ、宇品港から皆、出征して行きました。そのとき、戦勝を祈願して宮島に参拝し、「適を召し捕る(飯取る)」という口語上の洒落から、宮島名物の杓子に願いを書いて千畳閣の柱一杯に打ち付けました。しかし、第二次世界大戦後にそれは取り払われました。戦後物資が不足して杓子を作る材料が不足して払い下げられたという説もありますがはっきりしません。
■金箔の瓦と木鼻の秘話
 千畳閣は明治43年に特別保護建造物に定められ、大正5年から8年まで本格的に修理が行われ、その完成後「厳島記念講演会」が開かれました。その記録本の中に当時の宮司・高山昇さんの「厳島雑話」という章があります。その中に修理のときのおもしろい雑話がありますので2つご紹介します。
その当時、千畳閣の屋根瓦の中には、純金の瓦が一枚あるという伝説がありました。そこで修繕のおり、一枚一枚瓦を覗きまわったのであります。それらしいものはありませんでしたが、巴瓦のふちの文様のところに金箔が張ってあったものが、わずかに残っているのを発見しました。その発見により昭和60年から平成元年まで行なわれた屋根の修理で軒丸瓦に金箔を付けました。
 修繕前の千畳閣の梁には木鼻(俗に象鼻と言います)がありませんでした。しかし鋸で切った痕跡が明らかに見えるのです。実は明治維新の神仏分離の際に、伊達権令が象鼻は印度的で仏教的なものなので切れ、という倹令を出し切り取られたのです。それを当時の役人、小泉甚右衛門がもらいうけました。それを小泉家が大切に保存しておられ、修理の際に木鼻が復元できたというわけです。
 このように様々な使い方をされながらも、千畳閣は創建当初の壮大豪壮な姿を400年間以上も私たちの前に伝え続けています。建物にふさわしい使い方を時代の変遷に応じて選択した知恵により、親しみも生まれ、建物自体も伝え続けられたのではないでしょうか。
 
ぜひ一度、ご覧になって下さい。
【新・宮島発見伝より】

◆もみじ饅頭のお話

2008年2月16日 日本経済新聞 生活組曲 NIPPONスイーツ紀行より

 広島を代表する銘菓『もみじ饅頭』

広島を代表する銘菓として定着している『もみじ饅頭』のお話が掲載されておりましたので抜粋して紹介いたします。

広島に住んでいますが、まったくこのようなことを知らずにすんでいますので再認識するにもいい機会でした。 

 ◆ 生まれ故郷・・・安芸の宮島

   日本三景の一つでもあり、海に浮かぶ厳島神社などの世界遺産また、日本屈指のもみじの

   名所「紅葉谷公園」で知られる土地。

◆ 宮島口桟橋から、フェリーで10分ほどで宮島に到着。

   神社に続く表参道に、約20軒が製造・販売する。そのほとんどが店頭で行っている。

◆ もみじ饅頭の誕生

   1906年ごろ、紅葉谷にある老舗旅館「岩惣」の女将が、紅葉谷にふさわしい独自の茶菓子

   をと、出入りの菓子店に依頼したのがきっかけ。

   当時、宮島で和菓子店を営んでいた高津常助さんによって、カステラ生地に餡を包んだの

   もみじ形の菓子が誕生したといわれる。

   また、わが国初代内閣総理大臣を務めた伊藤博文が宮島を訪れた際、紅葉谷の茶屋で

   お茶を出した娘の手を見て「もみじのようなかわいい手」とか、「その手でもみじの形をした

   菓子を焼いて食べたらおいしかろう」などとたわむれで言った言葉がヒントになったという説

   もある。

◆ もみじ饅頭の中身

  現在は、抹茶・クリ・紅芋・チーズ・各種ジャムやクリーム入り、生地にレーズンを練りこんだ

  もの、さらにアイスもみじや揚げもみじなどバリエーションもさまざま。

  基本形は・・・餡入りだが、こし餡を使う

●1925年創業「藤い屋」の藤井 嘉人さんのお話

  ・同じこし餡でも、宮島では基本的に皮むきのさらしこし餡を使う

  現在、広島県で100件ほどがもみじ饅頭を製造しているが、宮島産のものは、いずれもグレ  

  ーがかった透き通るような薄い紫色。広島のほかの土地のものはその限りでないそうだ。

  :餡はざらめを加えて炊き、生地の材料は卵、小麦粉、上白糖、また色つややしっとりした食  

   感のため、水あめもくわえる。時期にもよるが1日約6万個を製造。

   「現在は機械を使っているが、生地の状態のチェックや油を引く、型から取り出すなどの工

   程は、今でも手作業で行う。また素材の味や質とともに、生地と餡のバランスも大切な要

   素」  ・・・藤い屋 藤井さん

   詳しくは、HPをご覧ください。 http://www.fujiiya.co.jp/

●1932年創業の「やまだ屋」 

  伝統を守りつつ、チョココーティングや大もみじ、地元の青果連と一緒に作った、レモンたみか

  んのピール入りのものなど、多彩なアレンジを次々に開発。

  クリエーターや炭業者と共に新広島土産として考案した竹炭入りの「黒もみじ」など、コラボ商 

  品にも積極的に取り組んでいる。

  同店の畠迫さんは、技術や味がともなって、初めていい商品が完成するという。

  同店では、もみじ饅頭製造体験教室なども行い、もみじ饅頭及び宮島の文化の普及にも力を

  いれている。

  やまだやさんのHPには、由来が書かれておりました

  明治以前の宮島は、芸州浅野藩の奉行所が置かれ、住民は厳島奉行から1人維持を受けて、それを生活のたしにしていました。
又当時は交通の便が悪く、宮島へは漕ぎ舟か、帆掛け舟で渡っていましたので、厳島神社の参拝客は滞在期間が長くなりました。
住民の暮らしは参拝客の宿泊と遊興で、豊かで盛況を極めて居ました。
 明治に移ると行政制度が廃藩置県となり、県政が施行されると江戸時代の扶持がなくなって、住民の生活は大変困窮し明治15年頃が不況のどん底だった様です。
 明治17年明治天皇が宮島の大聖院に行幸されましたが、その頃から宮島の経済も立ち直りを見せて来ました。
 明治26年に東京〜広島間の鉄道が開通し、30年には宮島口駅が開設、33年宮島渡航会社が設立され、宮島航路が開通しました。
 こうして交通の便が良くなると一般の神社参拝客も多くなり、特に日清日露の戦争で、廣島の宇品港から大陸に向かう兵隊さんが戦勝・武運長久祈願の為に厳島神社に大変多く参拝されました。
参拝客の増加につれて、旅館や土産品店も増えてきました。

 その頃、柳井の人で高津常助という人が、岩惣旅館や錦水館に、茶菓子を納められておりました。
岩惣旅館は、宮島の中でも大変美しい紅葉谷公園に位置し、明治の高貴高官が多数宿泊されるので「もみじの葉型」を型取った菓子を作る事を、高津常助氏に依頼し、茶菓子用として製造させました。

 高津氏の話によると、
 製造は明治40年頃で43年に意匠登録を取り販売を広められました。
 これが、「もみじ饅頭」の起こりです。

 昭和32年、戦前のもみじ饅頭の味の良さが観光客に知られ販売数量も多くなり、初めて“もみじ饅頭のしおり”を作成しました。

 伊藤博文公が紅葉谷を散歩される途中、岩惣の茶店に立ち寄られ、お茶を一服所望されました。
そのとき、茶店の娘さんがお茶を差し出すかわいい手を見て
  「もみじのような可愛い手、食べてしまいたいような手だね。」
と冗談まじりにおっしゃいました。
側できいていた岩惣の女将さんがその言葉にヒントを得て、茶菓子にもみじ饅頭をつくらせたということです。

 55年の10月頃から、広島出身の洋七と岡山出身の洋八と云う漫才師が、B&Bと云うコンビを組んで売り出しました。
 二人の掛け合いの中でそれぞれの地元の名物の自慢話を取り入れました。
洋七は広島県出身でもみじ型を手で大げさに表現し「もみじ饅頭」、洋八は岡山県出身で桃の型をやはり手で表現し「きび団子」とお互いに譲らず、盛り上げました。
 このB&Bの漫才で、戦前は宮島だけ、戦後は広島地方から、関東、関西、九州へと一躍全国的名物菓子に数えられる様になりました。

やまだやさんのHP・・・http://www.momiji-yamadaya.co.jp/ 

インターネットでも購入できるようです。